先輩たちの奏でるバンド演奏にスコーンとはまり、音楽とくにギターに夢中になったのが中学一年生のころ。
その後は音楽にドハマりし勉強は2の次3の次。
高校へは行きたくありませんでしたが、親や家族の勧めもあり入学するも、勉強よりも音楽一色。
学校よりもギター。
勉強よりもギターやアンプ、エフェクターを購入するためのアルバイト。
こんな感じでしたので、毎年赤点すれすれで高校を卒業する時も先生から「卒業式来るなら卒業させてやるから」と言われる始末。
その後、茨城県常総市である田舎を後にして、大阪府茨木市にてギター三昧。
7年アルバイトとギターだけという生活を送りました。
「もう音楽では生活できないかも?」と夢をあきらめアパレル業界へと入ることになったのが25歳のころ。
務めたのは関東近郊に25店舗を持つレディースのセレクトショップを運営する勢いのある会社でした。
それまでひざの破れたジーンズにおなかの中に入れた白いTシャツ。
寒くなれば白ティーの上にクロのトレーナーを着て、やたらと重たいショットの革ジャンというかっこしかしたことの無いわたしでしたが頑張りました。
「オシャレになりたい」この一心で配属されたのが当時ドル箱と言われていた一番売り上げの良い国分寺店であります。
国分寺店は駅ビル入り口のすぐで、年間売り上げは1億5千万というとにかく忙しいお店でした。
1年販売員をして店長になり4年ほど。
その後は仕入れに同行したり、店舗開発のお手伝いをしたりと頑張りました。
こう書いてみると、かなり出世しているように思われるかもしれませんが、なにせ男が少ない会社でして、9割が女性という会社。
こうした状況でしたから、一生懸命に働いている男は比較的良い扱いを受けることができたんですね。
そうしているうちに「新しいブランドを立ち上げろ」という社長命令が来ることとなりました。
カリスマで超ワンマンの社長でしたから、逆らうことなどできませんでしたが、何とか食い下がりその話はお断りしました。
「自分に新ブランドを作るなんて無理!」
それはそうですよね。
25歳まで好き放題音楽やってきてろくな勉強もしていないわけですから、ファッションはもとより、マーケティングなんて知るはずもありません。
しかしです、一度お断りした話でしたが、周囲の社員が「お前やってみろよ」というではないですか?
そんなことで周りから地固めされ新ブランドを立ち上げることとなるんです。
その場所が代官山です。
この時30歳少し手前。
おっそろしかったですよ~。
自分で仕入れたものをお店に立って直に販売する。
しかも代官山でです。
25歳のころの私のカッコ覚えていますか?
ひざの破れたジーンズにTシャツ。
多少はオシャレにもなっていたかもですが、代官山でキレイな女性に接客販売なんてそう容易くできるものではありません。
いつもお店の陰に隠れたくなりました。
自分の着こなしに自信が持てなくてです。
そうこうする間に、1件のアパレルメーカーに同い年の男性がおり仲良くなり始めました。
会うたび、会話を重ねる間に「何を着たらいいのかわからない」ということを打ち明けました。
すると「こういうの着たらいいっすよ」「このアイテムはやっているから着たらいっすよ」とすすめられるような間柄になったんです。
時には「こんなの俺には無理!もしかしてからかわれているんじゃないか?」と思えることもありましたが、変化が起こり始めるのは早いもので。
アパレルメーカーの営業にすすめられるままにアイテムを着始めると「いつもオシャレですね」「今度もおすすめしてね」「今度いついるの?」とお客さんから声がかかる様になりました。
こうした一言ってすっごく自信になるんですよね。
その後、マンガにあるように任され店長をしていた隣の区画に自分でお店をオープンすることになりました。
そのお店は10年続き、うち5年間は2号店として横浜でもお店を持たせてもらいました。
大変貴重な時期を終え、店舗は知り合いのアパレルメーカーに譲渡し、今では40代以上の男性向けに個人的に着こなしをアドバイスするパーソナルスタイリストを行っています。
また別の仕事として、ネット集客やオンラインでお客様と関係を深めるメール配信方法などのアドバイスも行っています。
こちらは7通のステップメールを構築し、300万円の商品を販売する程度の実績を作ったり、企業様のウェブサイトに人を集め、オンライン上で顧客リストを獲得する方法などを有料でお手伝いしています。